国の約束、人の約束
世界が注目した米国大統領の引継ぎが、1月20日をもって大過無く終わりました。無観衆という異例の祝賀祭典でしたが。
異端のトランプ前大統領が世界に残したものは、国と国、人種と人種、高所得層と低所得層等々の「分断」という結果だけだったのだとしたら、空しい4年だと言えるかもしれません。
負の置き土産が山積する中での船出となったバイデン新大統領のもと、米国が従前の世界の要としての役割を復活してくれるように願っています。
この4年の間、事ある度に私が感じて来たことは「国と国の約束である各種の条約を、いとも簡単に破棄」といえる大統領の権限の大きさに驚愕したのと併せ、「国の約束」とは一体どのような重みがあり、守る義務を伴ったものなのかに大きな疑問符が付きました。そう感じて来られた方も多いと思います。
日本が直面している韓国の慰安婦問題と照らすと、「過去に解決した問題」として「国と国の約束」に対して、厳しく対応しようとしている日本政府の姿勢には、同調する日本国民が多いのではないかと感じています。
いつの頃からか、政治の世界を発信源として「記憶にございません」という都合の良い言い逃れが常態化している事は寂しい国(日本)になってしまいましたが、大和魂と武士道の価値観では、「人と人の約束」の何倍も何十倍も重いものが「国と国の約束」であるべき、という世界共通認識であってほしいと願っているのは、私だけではないと信じています。
聞いた話では、「企業の倒産」という事件に関しても、日本では経営トップが責任を感じその将来を絶つといった武士道的結末をとる事が多く有ったのですが、片や米国では、経営トップが大きな責任を感じて身をもって責任を明確にするような悲惨さは無い、と聞いたことがありますし、事実の様です。
「国が違えば」「宗教が違えば」「民族が違えば」等々、理解に苦しむことが地球上には多く存在するのでしょう。
しかし、「約束」という事実を、そんなに簡単に反故に出来る超大国の考えがまかり通る様な世界は、私にとってはとても『不愉快な事実』です。
看板を掲げた限り、全力を挙げて「約束を守る」企業であり、個人である様、今後も努力する所存です。
変わらぬご愛顧をお願いいたします。